松下幸之助

Years

    Tag selector

      松下電気器具製作所(現在のパナソニック)を創立

      1918大正7年

      松下電気器具製作所(現在のパナソニック)を創立

      3月7日、創業者・松下幸之助はそれまでの住居兼工場であった猪飼野から大阪市北区大開町に移り、「松下電気器具製作所」を創立。配線器具の製造を開始しました。当時の作業場は、2階建ての借家の階下3室を改造したもので、設備は小型のプレス機が2台のみ。人手は幸之助と、むめの夫人、義弟(井植歳男・後の三洋電機 創業者)の3人だけという小さな個人企業からのスタートでした。
      ※ 写真は創立翌年のもの。後列左から、幸之助、井植歳男、松下むめの。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      最初の製品「アタッチメントプラグ」、「2灯用差し込みプラグ」を発売

      1918大正7年

      最初の製品「アタッチメントプラグ」、「2灯用差し込みプラグ」を発売

      創業者・松下幸之助は、便利で品質のよい配線器具を作れば、一般家庭に大きな需要があると確信。最初の製品「アタッチメントプラグ」、続いて「2灯用差し込みプラグ」を発売しました。「2灯用差し込みプラグ」は、家庭での電気供給口が電灯用ソケット1つだけだった時代に、「電灯2灯」、「電灯とアイロン」などが同時に使えることで人気を呼びました。
      ※ 写真はパナソニックの最初の製品「アタッチメントプラグ」(左)と1920(大正9)年に発売された「2灯用差込クラスター(2股ソケット)」(右)社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      第1次本店・工場を建設

      1922大正11年

      第1次本店・工場を建設

      創業者・松下幸之助は、1920(大正9)年2月、初めての商標「M矢のマーク」を制定。3月には東京駐在を設置しました。1922(大正11)年には、新しく工場を建設することを決め、自ら工場と事務所の設計を行いました。不況下にありながら積極経営を進め、創業以来4年間で、小さいながらも工場らしい工場を持つ小企業へと発展しました。
      ※ 写真は、1924(大正13)年ごろの工場風景社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      自転車用の砲弾型電池式ランプを発売

      1923大正12年

      自転車用の砲弾型電池式ランプを発売

      特殊な組立電池と新型の豆球を使用した自転車ランプを発売。乾電池式は寿命が短い(2時間から3時間が一般的)という通説を覆し、電池寿命が30時間以上という画期的な製品となり、大ヒットしました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      「ナショナル」の商標を付けた初の商品、「ナショナルランプ」を発売

      1927昭和2年

      「ナショナル」の商標を付けた初の商品、「ナショナルランプ」を発売

      1925(昭和元)年、創業者・松下幸之助は、発売に向けて生産していた角形ランプのために「ナショナル」の商標を考案し、翌年には商標権を獲得。「国民の必需品」となるようにと願って付けた「ナショナル」の名を冠した最初の商品、「ナショナルランプ」は1927(昭和2)年に発売されました。自転車用にも、置いても、携帯しても使えるこの電池式の角形ランプは、安全な光源として大ヒット。「ナショナル」が電池式ランプの代名詞になったほど、日本全国津々浦々にまで普及しました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      電熱部を設置

      1927昭和2年

      電熱部を設置

      一般家庭でも買いやすい価格で、品質の良い電熱器を作りたいと考えていた創業者・松下幸之助は、新たに電熱部を設置。最初の製品としてアイロンの開発をスタート。3カ月後に発売した「スーパーアイロン」は、ヒーターを鉄板に挟んだ新構造を採用し、既存のアイロンに匹敵する品質を約3割安い価格で実現しました。この「スーパーアイロン」を開発した中尾哲二郎は、パナソニックの技術の最高責任者として数々の新技術・新製品の創出に携わりました。

      Related Category
      綱領・信条を制定

      1929昭和4年

      綱領・信条を制定

      3月、創業者・松下幸之助は、松下電気器具製作所を「松下電器製作所」と改称。同時に、会社の社会に対する責任を「松下電器綱領」として明示しました。「営利ト社会正義ノ調和ニ念慮シ、国家産業ノ発達ヲ図リ、社会生活ノ改善ト向上ヲ期ス」とする綱領は、時代と共に修正が加えられ、現在、「産業人たるの本分に徹し、社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与せんことを期す」となっています。事業を単なる営利追求の手段とせず、社会のために、産業人としての本分を尽くすことを経営の基本方針とするその精神は終始一貫して現在まで受け継がれています。また、このとき同時に、「向上発展ハ各員ノ和親協力ヲ得ルニアラザレバ得難シ、各員自我ヲ捨テ互譲ノ精神ヲ以テ一致協力店務ニ服スルコト」という「信条」も制定されました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      貿易部を設置し、輸出事業に着手

      1932昭和7年

      貿易部を設置し、輸出事業に着手

      前年の1931(昭和6)年には乾電池とラジオの生産も開始し、企業規模が飛躍的に拡大。これにつれて海外にも目が向けられ、「自ら作って自ら輸出をする」との創業者・松下幸之助の考えから、翌1932(昭和7)年4月に貿易部を設置。配線器具、ランプ、乾電池などの輸出から、パナソニックの海外事業が始まりました。当時、日本の貿易は商社や貿易商によって行われており、メーカーが主体となって輸出をするのは画期的なことでした。

      Related Category
      真の使命を知る

      1932昭和7年

      真の使命を知る

      創業者・松下幸之助は、ある宗教団体を見学したのをきっかけに、生産人の使命というものを深く考え始めました。そして5月5日、大阪の中央電気倶楽部に全店員168名を招集。パナソニックの真の使命を次のように語りました。「水道の水は加工され価あるものであるが、通行人がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格があまりにも安いからである。産業人の使命も、水道の水のごとく物資を豊富にかつ廉価に生産提供することである。それによってこの世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。わが社の真の使命もまたそこにある」。商売や生産は、その商店や工場を繁栄させるのでなく、その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。この考え方は「水道哲学」と呼ばれ、その後パナソニックを代表する思想として有名になりました。幸之助は使命達成のための250年にも及ぶ壮大な事業計画を語り、その使命の崇高さ、計画の壮大さに全員が胸を打たれ、会場は興奮のるつぼと化しました。幸之助はこの日をもって「創業記念日」とし、事業の真の使命を知ったということからこの年を「命知元年」としました。
      ※ 写真は、大阪の中央電気倶楽部で開催された創業記念式典の様子社史 | Panasonic 企業情報松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      ラジオに関する特許を買収し、一般に無償公開

      1932昭和7年

      ラジオに関する特許を買収し、一般に無償公開

      当時、高周波回路で多極真空管を使用するラジオは、ある発明家の持つ設計特許に抵触するために、パナソニックをはじめとするラジオメーカーはみな苦労していました。そこで創業者・松下幸之助は、10月にこの特許を買収。同業他社も自由に使えるように、無償で公開しました。これは、ラジオ業界全体の発展に大きな貢献をしたとして、各方面から賞賛と感謝を受けました。
      ※ 画像は当時の新聞記事社史 | Panasonic 企業情報松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      門真に本店を移転、事業部制を採用

      1933昭和8年

      門真に本店を移転、事業部制を採用

      フル生産でも注文に応じ切れない状態になってきたパナソニックは、大阪門真地区に7万平方メートルの敷地を買収。ここに新しい本店と工場群を建設し、事業の本拠を移しました。また、同年5月、創業者・松下幸之助は、事業を製品分野別の責任経営にすることを決定。各事業部はそれぞれ傘下に工場と出張所を持ち、製品の開発から生産販売、収支までを一貫して担当する独立採算の事業体になりました。
      ※ 写真は、事業部制について説明する幸之助社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      店員養成所を開校

      1934昭和9年

      店員養成所を開校

      創業者・松下幸之助は、「事業は人である。ものをつくることも大切であるが、その前に人をつくることが肝要である」という信念を持ち、人材の育成にはとくに情熱を注ぎました。この年には小学校卒業者を対象とする「店員養成所」を発足。旧制中等学校5年間の商業・工業両課程修了と同程度の学力を3年間でつけるとともに、人間的な修練を加え、卒業と同時に実務ができる店員の養成を始めました。
      ※ 写真は店員養成所の授業風景社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      モートル(モーター)の第1号機を発売

      1934昭和9年

      モートル(モーター)の第1号機を発売

      当時重電メーカーが手がけていたモーターの開発に成功。「将来、一家に10台のモートルが使われる日が必ず来ます」と述べた創業者・松下幸之助の予見は見事に的中し、戦後、家電製品に数多くのモーターが使われる時代が到来しました。松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      共存共栄の理念に基づき、正価販売運動を展開

      1935昭和10年

      共存共栄の理念に基づき、正価販売運動を展開

      創業者・松下幸之助は、適正利潤に基づく価格で販売することは、メーカー、販売業者の経営安定のためだけでなく、需要者にとっても買いやすく、しかも安心して買えることになると確信していました。そこで、共存共栄の理念に基づいて正価販売運動を展開。「正価」とは「適正価格」という意味で、一般の「定価」と区別するための呼称でした。さらにその理念を推し進めるために「連盟店制度」を実施しました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      株式組織に改組し、松下電器産業株式会社となる

      1935昭和10年

      株式組織に改組し、松下電器産業株式会社となる

      パナソニックの業容は従業員約3,500人、年間販売高は約1,200万円に到達。製造品目は約600種、販売網も海外まで伸び、電気器具の有力メーカーとして注目されるようになっていました。この年の12月、創業者・松下幸之助は「会社は社会からの預かり物」との考え方に立って松下電器製作所を株式会社化し、「松下電器産業株式会社」を設立しました。同時にこれまでの事業部制を発展させた「分社制」を採用し、事業部門別に9社の子会社を設立、ほかに4友社を置きました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      週休制を開始

      1936昭和11年

      週休制を開始

      これまで月に2日だった休日を、毎週1日休める「週休制」に変更しました。創業者・松下幸之助は、従業員の指導育成の面から、休日が増えたために遊びすぎて健康を害したりすることのないよう、月4回の休日のうち2回は休養に、2回は修養に充てるように望みました。

      Related Category
      「3つの心得」を通達

      1939昭和14年

      「3つの心得」を通達

      日本国内で戦時体制強化が進む中、パナソニックも本来の事業である電気器具の生産をできる限り維持することに努力しつつも、生き残る道として、やむなく軍需生産にも分に応じて協力せざるを得なくなりました。しかし創業者・松下幸之助は、戦争のために事業本来の目的を見失い、経営が放漫に流れることを戒めるため、「経営の心得」「経済の心得」「社員指導及び各自の心得」を社内に通達。「経営といひ商売といひ、これ皆公事にして私事にあらず」に始まるこの「3つの心得」によって、社員全員の自覚を促しました。松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      初の経営方針発表会を開催

      1940昭和15年

      初の経営方針発表会を開催

      前年の9月に第二次大戦が勃発。日本でも戦時体制の強化が進む中、民需生産も大きな制約を受けるようになってきました。こうした中、パナソニックでは初となる経営方針発表会を開催。その中で創業者・松下幸之助は、「国策遂行のため全力をあげて協力しなければならないが、一般国民のことを思えば、わが社伝統の平和産業も重大である」と訴えました。経営方針発表会は、以後毎年1月10日に恒例の行事として開催され、その年の具体的な経営方針が明示されることになりました。松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      「優良品製作総動員運動」を提唱

      1940昭和15年

      「優良品製作総動員運動」を提唱

      日本でも戦時体制が強化される中、創業者・松下幸之助は消費者のため、また全国の代理店・販売店のためにも民需生産を維持する方針を明示していました。しかし、価格統制へ対応するための設計簡素化、資源の使用規制による代用資材の採用などに起因する品質悪化の兆しが見え始めたため、幸之助はこの年の8月に「優良品製作総動員運動」を提唱。すべての点で消費者のニーズに合致する優良品の製造ならびに不良品の絶滅を訴え、社員全員の奮起を促しました。
      ※ 写真は当時の工場の様子松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      社章を「M矢」から「三松葉」のデザインに改定

      1943昭和18年

      社章を「M矢」から「三松葉」のデザインに改定

      12月、業容の発展にともない社章を一新。従来の「M矢」から「三松葉」のデザインに改定されました。松下の松にちなみ、三枚の松葉を力強く組み合わせた図は一致団結を示し、矢は四方八方への生成発展を、また、年中色の変わらない松の緑から堅忍不抜を象徴したものです。松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      民需復興宣言

      1945昭和20年

      民需復興宣言

      終戦を知った8月15日、「今こそ明確なる方針のもとに、全員が一致団結し、復興に努めなければならない」と決心した創業者・松下幸之助は、翌日幹部を講堂に招集。ただちに民需産業に復帰する方針を明示しました。さらに続く8月20日には全従業員宛ての通達を出し、その中で「生産こそ復興の基盤である。伝統の松下精神を振起し、国家再建と文化宣揚に尽くそう」と訴えました。これを受けて生産準備は迅速に進捗。軍需工業停止を目的としたGHQの生産中止命令に対してもすぐに許可申請活動を展開し、9月半ばのラジオに始まって次々と生産許可が下り、10月中には全事業場が生産再開へとこぎつけました。
      ※ 写真は、戦後まもなく生産再開されたラジオ工場の様子松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      製品検査所を設置

      1946昭和21年

      製品検査所を設置

      創業者・松下幸之助は、1月の経営方針発表会で、高賃金・高能率、専門細分化とともに、技術の向上を大きな方針として掲げ、「松下電器の製品は、大衆本位で実用的な点では日本一だと思うが、品質でも日本一になること」を当面の目標として努力することを求めました。品質向上を実現するために製品検査所を設けた幸之助は、その所長も兼任。審査にパスした製品だけを発売することを発表しました。

      Related Category
      会社解体の危機に直面

      1946昭和21年

      会社解体の危機に直面

      終戦後、パナソニックは直ちに民需生産の再開に取りかかりましたが、この年に入ってGHQの方針が厳しくなり、3月に制限会社の指定を受け、すべての会社資産が凍結されたのをはじめとして、1948(昭和23)年にかけて公職追放指定を含む7つの制限を受け、一時解体の危機に直面しました。これに対して創業者・松下幸之助は「松下電器の事業は本来平和的な生活必需品の生産販売である」として、以後4年間ねばり強く抗議。その結果、1950(昭和25)年後半には、ほとんどの制限が解除され、会社解体の危機を脱しました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      PHP研究所を創立、翌年に機関誌「PHP」を創刊

      1946昭和21年

      PHP研究所を創立、翌年に機関誌「PHP」を創刊

      戦後の日本はインフレの急進や凶作による食糧不足もあり、混乱が続いていました。「人々が、正しい人間性、自然の道理に従って考え、行動すれば、道が開け、すべての人々が繁栄し、幸福で平和な生活ができる正常な社会が築かれるのではないだろうか」創業者・松下幸之助はそう考え、「繁栄による平和と幸福」(Peace and Happiness through Prosperity)を実現するために、また、互いに謙虚な気持ちでその方法を研究し、衆知を集めて目的の実現を図るために、11月に「PHP研究所」を創立。広く社会の人に呼びかける積極的な活動を始め、翌年4月に機関誌「PHP」を創刊しました。
      ※左は、PHPの理念を普及するために発行されたPHP誌の創刊号社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      創業者・松下幸之助が初の米国視察

      1951昭和26年

      創業者・松下幸之助が初の米国視察

      1月、創業者・松下幸之助は海外事情を見聞し、視野を広げるために、3カ月間のアメリカ視察に旅立ちました。日米の格差はあまりに大きく、幸之助は、特にエレクトロニクス技術について海外に学ぶべき点が多いことを痛感。具体的な技術提携先を求めて、同年10月に再び渡米。ヨーロッパを周って12月に帰国しました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      創業者・松下幸之助が初訪欧

      1951昭和26年

      創業者・松下幸之助が初訪欧

      幸之助は、世界的視野に立った経営の必要性を強く感じ、10月の渡米ののち、初めて欧州4カ国(オランダ、ドイツ、フランス、イギリス)を訪問。12月の帰国までに各地の工場などを見学し、エレクトロニクス分野における優れた欧米企業との技術提携、及び経営の提携の可能性を探りました。
      ※写真は欧州視察に向かう機中の幸之助

      Related Category
      フィリップス社との技術提携により、松下電子工業を設立

      1952昭和27年

      フィリップス社との技術提携により、松下電子工業を設立

      創業者・松下幸之助は、戦前から取引関係があり、戦後も先方から取引再開を申し込んできていたオランダのフィリップス社と提携の交渉を進め、10月、同社と技術・資本提携を締結。子会社、松下電子工業が誕生しました。フィリップス社の経営者は、単に「技術援助を行い、技術援助料を支払う」だけの関係ではないとし、この提携を両社の「結婚」と表現しました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      ニューヨーク出張所を開設

      1953昭和28年

      ニューヨーク出張所を開設

      創業者・松下幸之助が1951(昭和26)年に初渡米した時の構想に基づき、海外の技術や市場の動向を調査すると同時に海外進出の拠点とするために、10月に「松下電器ニューヨーク出張所」を開設。翌1954(昭和29)年には、真空管式ポータブルラジオ2万台をアメリカに輸出しました。
      ※写真は、ニューヨークの街角にたたずむ幸之助

      Related Category
      中央研究所を設立

      1953昭和28年

      中央研究所を設立

      技術部門の本格的な充実強化を始めたパナソニックは、門真に新しく中央研究所を設立しました。ここでは基礎研究と各事業部技術部門の製品開発の指導援助に加えて、オートメーション時代に対応した新しい機械設備、治工具の研究開発まで一貫対応。専門の機械製作工場を持ち、また製品デザインの研究指導部門を包含した総合的な研究施設として新しい電化時代の推進力になりました。
      ※ 写真は中央研究所の内部社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      日本ビクターと資本提携し子会社に

      1954昭和29年

      日本ビクターと資本提携し子会社に

      戦後、日本ビクターが経営不振に陥り、取引銀行を通じて同社の経営再建を依頼された創業者・松下幸之助は、2名の経営者を派遣しました。さらに、かねてから敬意を抱いていた野村吉三郎元駐米大使を社長に起用。電蓄やテレビなどを生産していた同社は、パナソニックと競争関係にありましたが、幸之助は公正な競争こそ社会の進展に寄与し、繁栄をもたらすという理念に基づいて、互いに競争しながら日本ビクターの再建を進めることを決定しました。

      Related Category
      米国・マロリー社と技術提携

      1956昭和31年

      米国・マロリー社と技術提携

      水銀電池を開発したことで知られる科学者、P・R・マロリー氏らにより設立されたP.R.マロリー社(現 デュラセル社)と技術提携しました。後の1965(昭和40)年、両社の合弁でナショナルマロリー電池株式会社が設立され、1967(昭和42)年には「ナショナルマロリーアルカリ乾電池」としてパナソニック初となるアルカリ乾電池が発売されました。
      ※ 写真は、マロリー社合弁総会で、合弁会社設立の調印を行う創業者・松下幸之助

      Related Category
      インドネシアの企業家・国会議員ゴーベル氏が創業者・松下幸之助を訪問

      1957昭和32年

      インドネシアの企業家・国会議員ゴーベル氏が創業者・松下幸之助を訪問

      国家統一のためにラジオの普及を重要な施策と考えたインドネシアのスカルノ大統領は、日本にラジオキット調達の使節団を派遣。メンバーの一人であったモハマッド・ゴーベル氏は、幸之助に自国の政治経済の動向や企業家としての独立への思いを語りました。それを聞いた幸之助は、ロット数の少なさを理由に他社が断った取引を受諾。1960(昭和35)年には技術援助契約も締結し、後の合弁会社設立のきっかけとなりました。

      Related Category
      焼失した東京・浅草の雷門が創業者・松下幸之助の寄進により再建される

      1960昭和35年

      焼失した東京・浅草の雷門が創業者・松下幸之助の寄進により再建される

      多くの観光客が訪れる東京・浅草の雷門。1865(元治2)年の火災により焼失したままになっていたこの門が、幸之助の寄進により再建されました。同時に大提灯の奉納もされました。以来、10年に一度、大提灯の修復が行われています。パナソニック、浅草寺雷門に大提灯を奉納 1960年以来続く、10年に一度の大改修

      Related Category
      創業者・松下幸之助が会長に、松下正治が社長に就任

      1960昭和35年

      創業者・松下幸之助が会長に、松下正治が社長に就任

      1月、恒例の経営方針を発表したのち、幸之助は「昨年は皆さんのご協力をえて、5ヵ年計画も無事達成することができました。また私も満65歳になりました。いろいろ考えましたが、この際、社長を退き、会長として後方から経営を見守っていきたいと思います。これを機に皆さんは新たな構想のもとに活動していってください」と述べました。
      あまりにも突然の発表に、出席者は大きな驚きと深い感銘を受けました。そしてこれを一つの転機として、パナソニックは松下正治社長のもと、全員が心を新たにして使命達成を誓い、次の飛躍の時代に入っていきました。また、幸之助はこれを機に京都の真々庵において、1950(昭和25)年以来中断していたPHP研究を再開しました。
      ※ 写真は、会長に就任した幸之助(右端)と松下正治社長(右から2人目)ほか新役員の就任披露会の様子社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      創業者・松下幸之助が米国タイム誌のカバー・ストーリーに登場

      1962昭和37年

      創業者・松下幸之助が米国タイム誌のカバー・ストーリーに登場

      パナソニックの共存共栄の理念と使命観は、1958(昭和33)年ごろから、タイム、ライフ、ニューヨーク・タイムズをはじめとする世界的な新聞・雑誌に相次いで取り上げられました。この年のタイム誌 2月23日号では、幸之助を表紙に掲載し、その経歴、思想およびパナソニックの飛躍的な発展の姿と経営理念を紹介しました。
      ※ 画像は、幸之助とパナソニックを紹介したタイム誌社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      全国の販売会社・代理店を集めて熱海会談を開催

      1964昭和39年

      全国の販売会社・代理店を集めて熱海会談を開催

      高度経済成長の反動が現れたこの年、パナソニックも11月期の半期売上は、1950(昭和25)年以来の減収減益となりました。販売不振により、販売会社・代理店も赤字経営に陥るところが激増。この事態を打開するため、創業者・松下幸之助は同年7月、全国の販売会社、代理店の社長との懇談会を熱海で開催しました。会議は白熱し、販売会社、代理店からは多くの苦情、要望が出されました。会議3日目、幸之助が「まずわが社自身が改めるべき点は改め、その上で販売会社にも求める点があれば率直に改善を求めて、危機を打開していくしか方法はない」と反省の念を表明。会場は粛然となり、お互いの努力と協力を誓い合いました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      創業者・松下幸之助が米国ライフ誌の日本特集号に登場

      1964昭和39年

      創業者・松下幸之助が米国ライフ誌の日本特集号に登場

      パナソニックの共存共栄の理念と使命観は、1958(昭和33)年ごろから、タイム、ライフ、ニューヨーク・タイムズをはじめとする世界的な新聞・雑誌に相次いで取り上げられました。この年、日本特集を組んだライフ誌の9月11日号では「MEET MR. MATSUSHITA(ミスター松下に会いましょう)」と題して松下電器と幸之助を紹介。その中で幸之助は、「最高の産業人、最高所得者、思想家、雑誌発行者、ベストセラー著者の5つの顔を持つ人物」「自動車王フォードとアルジャー(米国の牧師兼作家)の2人を1人で兼ねているパイオニア」と評されました。松下幸之助の生涯 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      創業50周年

      1968昭和43年

      創業50周年

      創業50周年を迎えたこの年、5月5日の創業記念中央式典をはじめとして、販売店、販売会社・代理店、共栄会社、一般恩顧者への謝恩会などの記念行事が相次いで開催されました。また社会の恩顧に感謝するため「児童の交通等災害防止対策資金」として総額50億円を寄贈すると発表。さらに都会への人口流出に悩む過疎地へ工場を展開すると発表しました。ビジネス面では「いざなぎ景気」という好環境にも恵まれ、全従業員の熱心な努力により、数々の「創業50周年記念号(製品)」が誕生。また「生産性倍増」をも達成して、販売高は前年比34.5%増を記録。創業50周年を祝うにふさわしい業績を残しました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      日本万国博覧会に「松下館」を出展

      1970昭和45年

      日本万国博覧会に「松下館」を出展

      「人類の進歩と調和」の統一テーマのもと、日本万国博覧会が3月から半年間、大阪の千里丘陵で開催されました。パナソニックは、「伝統と開発・5000年後の人びとに」をテーマに「松下館」を出展。天平時代の建築様式をとりいれたパビリオン前棟にはタイム・カプセルEXPO'70が展示され、後棟に設けられたお茶室では訪れる人びとに日本の伝統の良さを体験してもらいました。会期中の「松下館」への来館者は760万人にも及びました。
      ※ 写真は、天平時代の建築様式を取り入れた「松下館」の外観

      Related Category
      創業者・松下幸之助が相談役となり、高橋荒太郎副社長が会長に就任

      1973昭和48年

      創業者・松下幸之助が相談役となり、高橋荒太郎副社長が会長に就任

      7月、幸之助は創業55周年を機に会長職を退任し、相談役に就任。高橋荒太郎会長と松下正治社長による新体制がスタートしました。これを記念し、社会の支援に感謝するため、各都道府県に総額50億円の社会福祉対策資金を寄贈することを発表しました。
      ※ 写真は、会長退任の挨拶会での幸之助と、高橋荒太郎会長、松下正治社長社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      中国の鄧小平副首相がテレビ事業部を訪問

      1978昭和53年

      中国の鄧小平副首相がテレビ事業部を訪問

      10月、中国の鄧小平副首相が来日し、パナソニックのテレビ事業部を訪問。「技術・経営面での援助をお願いしたい」と要請しました。それに対して創業者・松下幸之助が「できる限りのお手伝いをします」と快諾したことで、パナソニックの中国での事業展開がスタート。翌1979(昭和54)年には幸之助が中国を訪問し、鄧副首相ら政府要人と懇談しました。
      ※ 写真は、幸之助らの案内でテレビ事業部を見学中の副首相一行

      Related Category
      創業者・松下幸之助がマレーシアで受勲

      1979昭和54年

      創業者・松下幸之助がマレーシアで受勲

      幸之助はマレーシアを訪問。1965(昭和40)年にマレーシア松下電器を設立して以来、同国の産業発展に大きな貢献を果たしてきたとして、クアラルンプールの首相官邸において、民間人に与えられる最高の勲章「パングリマ・マンク・ネガラ勲章」と「タン・スリ」の爵位を受けました。

      Related Category
      創業者・松下幸之助が中国を訪問

      1979昭和54年

      創業者・松下幸之助が中国を訪問

      中国におけるパナソニックの事業展開は、1978(昭和53)年10月、来日した鄧小平副首相一行がテレビ事業部を訪問したことに始まります。明けたこの年には、幸之助が中国を訪問。鄧副首相、谷牧副首相ら政府要人と懇談し、中国の近代化促進のために、電子工業分野での協力を約束しました。社史 | Panasonic 企業情報

      Related Category
      財団法人松下政経塾を開塾

      1980昭和55年

      財団法人松下政経塾を開塾

      生涯をかけて理想社会の実現を追い求めた創業者・松下幸之助は、やがて「我が国を導く真のリーダーを育成しなければならない」との考えにたどり着きます。1979(昭和54)年、84歳にして、未来のリーダーを育成する松下政経塾を設立、明けたこの年に開塾しました。以来、松下政経塾は、さまざまな分野で活躍するリーダーを輩出。卒塾生たちは、政治家、企業経営者、社会起業家、研究者など、それぞれの立場で活躍しています。
      ※ 写真は、1980(昭和55)年4月に開塾した松下政経塾の外観。

      Related Category
      米国ハーバード大学経営大学院が松下幸之助教授職を設置

      1981昭和56年

      米国ハーバード大学経営大学院が松下幸之助教授職を設置

      パナソニックは米国・経営大学院ハーバード・ビジネススクールに100万ドル(約2億3,000万円相当)を寄贈、この基金により「松下幸之助教授職」が設置されることになりました。同経営大学院には、大企業や個人の名を冠した教授職はほかにもありましたが、アメリカ人以外ではこれが初めてでした。

      Related Category
      創業者・松下幸之助が会長を務める(財)国際科学技術財団が「日本国際賞」を創設

      1983昭和58年

      創業者・松下幸之助が会長を務める(財)国際科学技術財団が「日本国際賞」を創設

      「国際社会に対し、日本は新たな決意をもって科学技術の振興に寄与しなければならない」との思いを抱いた幸之助は、前年に日本国際賞準備財団を発足させ、自ら初代会長に就任しました。同準備財団は5月、政府の所管する「公益法人 国際科学技術財団」となり、日本国際賞を正式に創設。1985(昭和60)年4月に開催された第1回の授賞式に、幸之助は満90歳の高齢にもかかわらず出席し、壇上で受賞者に賞状と賞金を授与しました。The Japan Prize Foundation

      Related Category
      創業者・松下幸之助が春の叙勲で勲一等旭日桐花大綬章を受章

      1987昭和62年

      創業者・松下幸之助が春の叙勲で勲一等旭日桐花大綬章を受章

      4月29日(天皇誕生日)に春の叙勲者が発表され、幸之助は勲一等旭日桐花大綬章を受章しました。それまでの藍綬褒賞(1956(昭和31)年)、勲二等旭日重光章(1965(昭和40)年)、勲一等瑞宝章(1970(昭和45)年)、勲一等旭日大綬章(1981(昭和56)年)に続き、民間人で最高位となる受章です。5月に皇居で行われた親授式に出席し、天皇陛下から親しく勲章をさずけられた幸之助は、受賞者を代表してお礼を申し述べました。

      Related Category
      (財)松下国際財団(現 松下幸之助記念財団)を設立

      1988昭和63年

      (財)松下国際財団(現 松下幸之助記念財団)を設立

      国際相互理解の増進と国際人の養成を通じて国際社会に貢献することを目的に(財)松下国際財団を設立。翌年から外国人留学助成、研究助成をスタートし、1997(平成9)年から国際交流助成、1998(平成10)年から日本人留学助成と、研究助成、国際交流助成などの活動を開始しました。2010(平成22)年に(財)松下幸之助花の万博記念財団と合併、名称変更により(財)松下幸之助記念財団が発足しました。※2012(平成24)年4月1日より公益法人制度改革に対応して、公益財団法人に変更。公益財団法人 松下幸之助記念財団

      Related Category
      創業者・松下幸之助が死去

      1989平成元年

      創業者・松下幸之助が死去

      4月27日、幸之助が94歳で生涯の幕を閉じました。9歳で故郷・和歌山をあとにし、一代でパナソニックを世界有数の総合エレクトロニクスメーカーに育て上げたその業績に対し、人々から尊敬と親愛の念を込めて「経営の神様」とも呼ばれました。世界各階層の人々に大きな影響を与えた経営観、人間観、社会観の持ち主だった幸之助の死去に対し、日本の総理大臣や米国大統領をはじめ、世界各国から心のこもった弔意が寄せられました。
      ※ 写真は、4月29日に行われた通夜の様子

      Related Category